第19帖 薄雲 / 第6場面
源氏の大堰行き、遠方人の歌
あらすじ・人物・読み方
公私の忙しさが過ぎた頃、源氏は装いを整えて大堰の明石の君のもとへ渡る。姫君に慕われて足止めされる源氏に、明石の君は中将の君を介して「遠方人」の歌を聞こえさせ、源氏は返歌で明日も訪れると応える。大堰での対面の後も、出しゃばらず卑下もしない明石の君の慎ましい振る舞いが、源氏の心をますます惹いていく。
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現代語で読む
山里〔大堰〕の所在なさをも絶えずお思いやりになるので、公私ともに騒がしい頃が過ぎて、〔大堰へ〕お渡りになろうとして、常よりも特にお化粧なさって、桜の御直衣に、格別な御衣を引き重ねて、薫きしめて、お仕度なさって、お出まし申し上げるお姿は、隈のない夕日の中で、ますます清らかにお見えになる。女君〔紫の上〕は、ただごとではなく拝見してお見送りなさる。
姫君は、幼く御指貫の裾に取りすがって慕い申し上げなさるので、外へもお出にならなければならなかったのに、立ち止まって、たいそう可愛らしくお思いになった。〔姫君を〕なだめておいて、「明日帰って来よう」と口ずさんでお出になると、渡殿の戸口で待ち受けて、中将の君をして〔明石の君が歌を〕お聞こえ申し上げなさった。
舟を泊める遠方人〔あなた〕がいらっしゃらないのなら、明日帰って来る夫としてお待ち申し上げることにしましょう。
〔歌が〕ひどく馴れ馴れしく聞こえるので、〔源氏は〕たいそう匂いやかに微笑んで、
行ってみて、明日もきっと来よう。なまじ遠方人〔私〕に心を置くとしても〔仕方がない〕。
何事とも聞き分けずに無邪気に歩き回っていらっしゃる人〔姫君〕を、上〔紫の上〕が可愛いとご覧になるので、遠方人〔明石の君〕の目覚ましい〔僭越な〕ことも、格別にお許しになってしまった。
「〔明石の君は姫君のことを〕どのように思い起こすだろう。私でさえ、ひどく恋しくなるに違いない様子なのに」
と〔お思いに〕なりながら、じっと見つめながら、懐に入れて、可愛らしいお乳を含ませなさりつつ戯れていらっしゃるお姿は、見所が多い。御前の人々は、
「どうして、どうせなら〔明石の君もこちらへお呼びしないのか〕」
「いやいや〔それは難しい〕」
などと、語り合っている。
あちら〔大堰〕では、たいそうのどかに、心ばせのある様子で暮らしていて、家の様子も、並外れて珍しいほどであるところ、〔明石の君〕ご自身の様子などは、見るたびごとに、高貴な人々などに劣る違いが格別なく、容貌も心用意も理想的に大人びてまさっていく。
「ただ、世の常の評判に紛れてしまったら、あれほど類がないと思われるはずもないのに、世に似ない偏屈な親〔明石入道〕の評判などこそ、苦しいことだ。人柄などは、それでよいはずなのに」となどお思いになる。
わずかに、物足りないほどにだけ〔お会いできる〕からであろうか、心がのどかでなくお帰りになるのも苦しくて、「夢の渡りの浮橋か」とばかり嘆かれて、箏の琴があるのを引き寄せて、あの明石で夜更けに〔聞いた〕音も、いつものように思い出されなさるので、琵琶をひどくお責めになると、少し掻き合わせたその様子は、「どうして、このようにばかり弾き具したのだろう」とお思いになるほどである。若君〔姫君〕のことなどを、細やかにお語りになりながらいらっしゃる。
ここ〔大堰〕は、このような所だけれど、このようにお立ち寄り泊まりなさる折々があるので、ささやかな果物や強飯ばかりをお召し上がりになる時もある。近くの御寺や桂殿などにおいでになって紛らわしながら、まったく本式に乱れなさることはないけれど、また、たいそう際立って無礼なほどでもなく、並一通りの様子ではおもてなしなさらないことなどは、たいそう評判が格別であるように見えるのであろう。
女〔明石の君〕も、このような〔源氏の〕お心のほどを見知り申し上げて、出しゃばり過ぎたとお思いになるほどのことはし出さず、また、ひどく卑下もせずなどして、ご意向に背くことなく、たいそう無難でいらした。
並々でない高貴な所でさえ、これほどまで打ち解けなさることはなく、気高いおもてなしぶりを聞き置いていたので、
「近いほどに交じっていたら、かえってたいそう目馴れて、人に侮られるようなことどももきっとあったでしょう。たまにこのようにわざわざおいでくださることこそ、高尚な心地がします」
と思っているに違いない。
明石にも、あれほど言っていたように、このご意向や様子を知りたがって、心配でなくはなく、人を〔大堰へ〕通わせながら、胸がつぶれるようなこともあり、また、面目が立って嬉しいと思うことも多くあったということだ。
底本:北村季吟編『湖月抄』延宝元年[1673]刊・国立国会図書館蔵 本別3-1 第19冊。本文画像:所蔵機関の公開資料。延宝元年(1673)刊『湖月抄』の大字本文を、国立国会図書館デジタルコレクションの原画像(IIIF)と照合した独自編集本文です。通行字体・現行仮名へ写し、濁点・句読点を補い、反復符を展開しています。発音の読みと独自訳を添え、補った主語などは〔 〕で示します。