第2帖 帚木 / 第9場面
頼りになる心と、忍びすぎる心
あらすじ・人物・読み方
最後に頼みにできるのは穏やかで誠実な心だと語ります。一方、恨みを言わずに姿を消す女性をめぐり、物語への子どものころの感動と、大人になってからの見方を比べます。
下の同じ枠で原文・発音の読み・現代語を一節ずつ確認できます。どの読み方から始めても読了を記録できます。
表示と音声の設定
現代語で読む
「もう、身分にはこだわるまい。容姿は、もちろん問うまい。ひどく残念で、ひねくれているという感じさえなければ、ただひたすらに、実直で、穏やかな心をもつ相手をこそ、最後まで頼りにする人として、考えておくべきだったのです。
その上に、趣味のよさや気立てのよさが添わっていれば、喜ばしいことと思い、少し劣ったところがあっても、無理に、それ以上のものを求めて付け加えようとはしますまい。安心できて、穏やかなところさえ、しっかりしていれば、表向きの風情などは、自然に身につけられるものでしょうに。
しとやかに恥じらって、恨みを言ってもよいことまで、気づかない様子で我慢し、表向きは、何ともない様子で平静を装い、自分ひとりの思いで、抱えきれなくなった時には、言いようもなく、ぞっとするほど切実な言葉や、胸を打つ歌を書き残し、自分を思い出してもらう形見を残して、山深い里や、人里離れた海辺などに、ひそかに姿を隠してしまうものです。
私が子どもだったころ、女房たちが物語を読むのを聞いて、なんとしみじみとして、悲しく、深い心のあることかと、涙まで、こぼしたものでした。今から考えると、ひどく軽はずみです。わざとらしいことです。
愛情の深い男性を残して、今、目の前につらいことがあっても、その人の心が分からないかのように逃げ隠れ、相手を途方に暮れさせ、その気持ちを試そうとしているうちに、長い一生の、悩みのもとになってしまうのは、本当に、どうにもつまらないことです。
思いの深い人だ、などとほめそやされて、しみじみした感情が高まってしまうと、そのまま尼になってしまうのです。決心した時には、心がすっかり澄んだようで、俗世を振り返ることもあるまいと思っていても、「いやまあ、なんと尊い。こんな決心をなさったのですね」などと言って、知り合いが訪ねて来て、完全に嫌だと思い切ったわけでもない男性が、それを聞いて涙を流すと、
仕える者や、古参の女房などが、「あのお方のお心は、愛情深かったのに。惜しいお身を」と言うので、自分でも額の髪のあった所に手をやり、あっけなく、心細いので、泣き顔になってしまいます。こらえても、涙がこぼれ始めると、ことあるごとに、我慢ができず、悔やまれることも多いようなので、仏も、かえって未練がましいとご覧になるでしょう。
俗世の濁りに染まっていた時よりも、中途半端に浮き出したような状態では、かえって、よくない道にさまよいそうに思われます。途切れない因縁が、浅いものでもなく、尼になる前に、探し出して連れ戻したとしても、それきりで済まず、思い返しては、恨めしいことがあるのではないでしょうか。
底本:北村季吟『湖月抄』延宝元年刊・国立国会図書館所蔵 本別3-1 [2]。本文画像:所蔵機関の公開資料。延宝元年(1673)刊『湖月抄』の大字本文を原画像とOCRで照合した独自編集本文です。通行字体・現行仮名へ写し、濁点・句読点を補い、反復符を展開しています。発音の読みと独自訳を添え、補った主語などは〔 〕で示します。