第39帖 夕霧 / 第5場面
夜明けの贈答
あらすじ・人物・読み方
小野の山里で、落葉の宮がほのかに漏らした歌を夕霧が濡衣の言葉で受け、夜明けまで贈答が続く。宮は世間の噂と御息所の心を案じて夕霧を帰らせようとし、夕霧は霧に紛れて出立しながらも思いを断ち切れない。
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現代語で読む
私だけがつらい世の例となって、涙で濡れ重なる袖の名を朽ちさせてよいものでしょうか。〔宮が〕おっしゃったともないその歌を、〔夕霧は〕自分の心に続けてそっと口ずさみなさるのも、〔宮は〕傍らで聞くのがつらく、どのように言ったことかとお思いになると、
「本当に、〔私の歌は〕お聞き苦しかったでしょう」などと、微笑みなさる様子で、たいていは、私が濡衣を着せなくても、朽ちてしまった袖の名が隠れるでしょうか、いや隠れはしません。〔私の心を〕ひたすらにお信じになってください」
と言って、月明かりの方へ〔宮を〕誘い申し上げるのも、〔宮は〕とんでもないこととお思いになる。〔宮は〕気強く振る舞いなさるが、〔夕霧は〕あっけなく引き寄せ申し上げて、
「これほどの比類ない私の心ざしをご覧になって知ってくださり、安心してお振る舞いください。ご許しがなければ、決して、決して〔先へは進みません〕」と、とてもはっきりと申し上げなさるうちに、明け方が近くなってしまった。
月は隈なく澄み渡り、霧にも紛れず〔部屋に〕差し入っていた。浅い廂の軒は〔月との〕隔てがない心地がして、月の顔に向き合っているようで、妙にきまりが悪くて、〔宮が顔を〕そらしたりなさる仕草など、言いようもなく優美でいらっしゃった。
亡き君〔柏木〕のことも少し語り出て、そのように穏やかな物語を申し上げなさる。〔宮は〕さすがにやはり、〔夕霧が〕あの過ぎ去った方〔柏木〕を貶めなさるのを、恨めしそうに怨み申し上げなさる。〔宮は〕お心の内でも、
「あの人〔柏木〕は、位などもまだ〔夕霧ほどに〕及ばなかった頃ながら、誰も彼もお許しがあったので、自然と〔私と〕親しくなり、見慣れなさったのに、それでさえとても目に余る心の在り様だったのに、ましてこんなあってはならないことが、よそで聞くという程度ではなく、大殿などが聞いてお思いになることよ。世間一般の非難は言うまでもなく、院〔朱雀院〕にもどのようにお聞きになってお思いになるだろうか」
などと、あちこち離れられないお心を巡らせなさると、とても残念で、自分の心一つに〔思い詰めて〕、「こんなに強く思っても、人の噂はどうなるだろう。御息所がご存じでないのも罪深いようで、こう聞きなさって、〔私を〕心が幼いとお思いになりおっしゃるだろうこともつらいので、
「〔夜が〕明けないうちにでもお出になってください」と、追い立て申し上げるよりほかの言葉はない。
「あきれたことです。何事かあったような顔で〔露の中を〕分けて行く私を、朝露がどう思うことでしょう。やはり、それなら〔私の心を〕お分かりください。〔宮に〕ばかげた様子をお見せ申し上げて、賢くあしらってしまったとお思いになって離れてしまわれたら、その時には心も収めようがなく、知らないこととして、とんでもない気遣いまでし始めてしまいそうに思われます」
と言って、とても気がかりで、かえって〔心残りだが〕、思いがけない戯れのようなことに、本当には慣れないお気持ちなので、「お気の毒で、私自身も気が弱くなってしまうだろう」などと思って、誰のためにも明らかになってはならないほどの霧に紛れて〔夕霧は〕お出になるが、心はうわの空である。荻原よ、軒端の露に濡れながら、八重に立ち込める霧を分けて行くことでしょう。濡衣はやはり乾かさせてはくださらないでしょう。こんなに無理に追い立てなさるお気持ちからこそ〔起こるのです〕」
と申し上げなさる。本当に、このお名が隠しきれず漏れてしまいそうなのを、「心が尋ねるだけでも、口先では清く答えよう」とお思いになるので、〔宮は〕ひどく〔夕霧を〕遠ざけなさる。〔あなたが〕分けて行く草葉の露を口実にして、なお濡衣を〔私に〕着せようとお思いなのでしょうか。珍しいことですこと」と、たしなめなさる様子は、とても趣があり恥ずかしそうである。長年、人とは違う気立ての人として、さまざまに〔夕霧が宮へ〕情けをお見せ申し上げてきたのに、すっかり気を緩め、好色めいたようになるのが、お気の毒で、心恥ずかしいので、深く思い返しながら、「こんなに無理に従い申し上げても、後がばかげたことになるだろうか」と、さまざまに思い乱れながらお出になる。行き道の露の多さも、とても身の置き所がないほどである。
底本:北村季吟編『湖月抄』延宝元年[1673]刊・国立国会図書館蔵 本別3-1 第39冊。本文画像:所蔵機関の公開資料。延宝元年(1673)刊『湖月抄』の大字本文を、国立国会図書館デジタルコレクションの原画像(IIIF)と照合した独自編集本文です。通行字体・現行仮名へ写し、濁点・句読点を補い、反復符を展開しています。発音の読みと独自訳を添え、補った主語などは〔 〕で示します。