方丈記 / 第5場面
養和の飢饉
あらすじ・人物・読み方
二年にわたる飢饉は都を死者で埋め、仁和寺の僧の数えた死者は四万二千三百余りに及んだ。
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また、養和のころ、二年の間、飢え渇いて、あるいは春に雨が降らず、あるいは秋に嵐が吹いて、五穀は実らず、春に耕しても、秋に刈ることはなく、冬の営みも、絶えてしまった。
国の民は、あるいは土地を去り、あるいは家を捨てて山に隠れ、田舎を捨て、宝物を捨て、米を求めて、さまよっていた。米の値段は、日ごとに高くなり、金一両で、粟一石、糝(砕けた米)一升にも届かないほどであった。
路のほとりには、飢え死にする者が、魚のように並んで倒れ、笠をかぶった者も、家ごとに年老いた者も、声も立てずに、死んでいった。その臭いは、鼻をついて、目も当てられないほどであった。
あるいは家を壊して、市に出て、薪を売って、一日の命をつなぎ、あるいは川に身を投げ、あるいは山で死に倒れていた。
母は子を抱き、孫は祖母を背負って、泣き叫ぶ声が、絶えなかった。仏像を盗み、堂の道具を壊して、命をつなぐ者もいた。濁り悪しき世とは、このことである。〔人々は〕自分の身を後回しにして、父母を養おうとしても、できなかった。
仁和寺の僧、隆曉は、死人の数を数えて、一条から南、九条まで、西は朱雀、東は白川のほとりまで、〔死者の〕頭に印をつけて、四万二千三百余りと数えた。四、五月の間、このようなありさまで、諸国・七道も、同じありさまであった。
昔、崇徳院の御代の時、このような例はなかったと、古老は言っていた。世の人の心も、なお定まらず、憂いは、日ごとに深くなっていった。
底本:『方丈記』正保4年[1647]村上平楽寺刊(京都・二条通玉屋町)・国立国会図書館蔵 857-80。本文画像:所蔵機関の公開資料。正保4年[1647]村上平楽寺刊『方丈記』(国立国会図書館蔵 857-80)の本文を原画像と照合した独自編集本文です。通行字体・現行仮名へ写し、濁点・句読点を補っています。発音の読みと独自訳を添え、補った主語などは〔 〕で示します。