更級日記 / 第10場面
石山・初瀬詣
あらすじ・人物・読み方
石山への再詣、大嘗会の御禊と重なる初瀬への長途。夢に現れる女、稲荷の杉の印、奈良坂の盗人の家、宇治川の網代を過ぎる。
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今は、昔のつまらない心も悔しかったとばかり思い知り果てて、親の物へ連れて参りなどせずに終わったのももどかしく思い出されるので、今は一重に、豊かな勢いになって、二葉の人をも、思う様に傅き大し立て、私の身も御蔵の山に積み余るばかりで、後の世までの事をも思おうと思い励んで、霜月の二十余日、石山に参る。
雪が降りながら、道の程さえ趣深いのに、逢坂の関を見るのにも、昔越えたのも冬だったなと思い出されるのに、その程も、ひどく荒く吹いた。逢坂の関の関風が吹く声は、昔聞いたのと変わらなかった。関寺が厳めしく作られているのを見るのにも、その折荒削りの御顔ばかり見られた折が思い出されて、年月が過ぎたのもひどくしみじみする。打出の浜の程など、見たのと変わらない。
暮れかかる頃に詣で着いて、湯屋に降りて、御堂に上るのに、人の声もしない。山風が恐ろしく思われて、行いをしてうちまどろんだ夢に、『中堂から御香を賜った。早くあちらへ告げよ』と言う人があるのに、驚いたところ、夢だったと思いうのに、良い事だろうと思って、行い明かす。またの日も、ひどく雪が降り荒れて、宮に語らい聞こえる人の具しなさる物語をして心細さを慰める。三日お仕えして退出した。
その帰る年の十月二十五日、大嘗会の御禊と知るのに、初瀬の精進を始めて、その日京を出るのに、相応しい人々が、『一代に一度の見物で、田舎世界の人でさえ見るものを、月日が多いのに、その日に限って京を振り出て行くのも、ひどく物狂おしく、語り草の物語ともなるべき事だ』など、姉妹である人は言い腹立てても、稚児どもの親である人は、『いかにもいかにも心にあるのだろう』と言って、言うに従って、送り出す心配りもしみじみする。一緒に行く人々も、ひどく物見たげなのは、痛々しいけれど、『物見て何になろう。こんな折に詣でる志を、それでもお思いだろう。必ず仏の御印を見よう』と思い立って、その暁に京を出るのに、二条の大路を渡って行くのに、先に御明かしを持たせ、供の人々は清衣姿なのを、そこらの桟敷どもに移ると言って行き違う馬も車も徒歩の人も、『あれは何だ、あれは何だ』と安からず言い驚き、浅み笑い、嘲る者どももいる。良頼の兵衛督と申した人の家の前を過ぎると、それが桟敷へお渡りになるらしく、門を広く押し開けて人々が立っているのが、『あれは物詣人らしいな。月日に限ってこそ世に多い』と笑う中に、どんな心ある人か、『一時の目を肥やして何になろう。ひどくお思い立って、仏の御徳を必ずご覧になるべき人こそあるようだ。よしなしかれ。物見で、こうこそ思い立つべきだった』と、真面目に言う人が一人いる。
道が顕証でない先にと、夜深く出たところ、立ち遅れた人々も待ち、ひどく恐ろしく深い霧が少し晴れるかと、法性寺の大門に立ち止まったのに、田舎から物見に上る者どもが、水の流れるように見える。全く道も空けられず、物の心を知り気もない怪しい童まで、引き避けて行き過ぎるのを、車を驚き浅んだ事限りない。
これらを見るのに、本当にどう出立した道かとも思われるけれど、一途に仏を念じ申し上げて、宇治の渡りに行き着いた。そこにもやはりこちら側へ渡る者どもが立ち込んでいたので、舟の棹を取ったる男どもが、舟を待つ人の数も知らないのに心驕りした様子で、袖を掻い捲って、顔に当てて、竿に押し掛かって、すぐに舟も寄せず、嘯いて見回し、ひどく澄ました様である。無残に渡れず、つくづくと見るのに、紫の物語に、宇治の宮の女どもの事があるのを、どんな所だから、そこに住まわせたのだろうと、ゆかしく思った所だ、本当に趣深い所だなと思いながら、ようやく渡って、殿の御領所の宇治殿に入って見るのにも、浮舟の女君がこんな所にいたのだろうかなど、まず思い出される。夜深く出たので、人々疲れて、やひろうちと言う所に留まって、物を食べるなどする程に、供である者どもが、『高名の栗駒山ではないか。日も暮れ方になってしまったらしい。主たち、調度を取り終わらせなさい』と言うのを、ひどく物恐ろしく聞く。
その山を越え果てて、贄野の池の畔へ行き着いた程、日は山の端に掛かっていた。『今は宿を取れ』と言って、人々散らばって宿を求める所、『端で、ひどく怪しげな下衆の小家がある』と言うのに、『どうしよう』と言って、そこに宿った。『皆人々は京へ参った』と言って、怪しい男が二人いた。その夜も寝られない。この男が出入りし歩くのを、奥の方の女どもが、『どうしてく歩き回るのか』と尋ねると、『いや、心も知らない人を宿し申して、竈橋も引き抜かれたら、どうすべきかと思って、寝られず巡り歩いているのだ』と、寝たと思って言う。聞くのにひどくむくむくしく趣深い。早朝、そこを立って、東大寺に寄って拝み申す。石上も本当に古びた事が思いやられて、全く荒れ果てていた。
その夜、山辺という所の寺に宿って、ひどく苦しいけれど、経を少し読み申して、休んだ夢に、ひどくやんごとなく清らかな女がおられるのに、参ったところ、風がひどく吹く。見つけて、微笑んで、『何しにいらっしゃったのか』とお尋ねになると、『どうして参らないことがありましょう』と申すと、『そこは内にこそあるのだろう。博士の命婦をこそよく語らおう』とおっしゃると思って、嬉しく頼もしくて、いよいよ念じ申し上げて、初瀬川などを過ぎて、その夜御寺に詣で着いた。
祓えなどをして上る。三日お仕えして、暁に退出しようとして、京へしようとして、として、うち眠った夜更け、御堂の方から、『そら、稲荷から賜る印の杉よ』と言って、物を投げ出す様にするのに、驚いたところ夢だった。
暁、夜深く出て、留まれないので、奈良坂の此方の家を探して宿った。これもひどい様子の小家である。『ここは様子のある所らしい。夢犬など浮かれる事があるのに、おなか、怯え騒がせなさるな。息もせずに臥させなさい』と言うのを聞くのにも、ひどく侘しく恐ろしくて、夜を明かす程、千年を過ごす心地がする。ようやく明け立つ頃に、『これは盗人の家だ。主の女が様子のある事をしていた』などと言う。
ひどく風の吹く日、宇治の渡りをするのに、網代がひどく近く漕ぎ寄った。音にだけ聞き渡ってきた宇治川の網代の波も、今日こそ数え尽くす。二三年、四五年隔てた事を、次第もなく書き続ければ、そのまま続き立った修行者のようだけれど、そうではなく、年月が隔たった事である。春頃鞍馬に籠った。山際が霞み渡り、のどやかなのに、山の方から、僅かに所などを掘って持って来るのも趣深い。出る道は、花も皆散り果てたので、何ともないのを、十月頃に詣でるのに、道の程山の景色、この頃はひどく勝るものだった。山の端、錦を広げた様である。滾って流れ行く水、水晶を散らす様に湧き返るなど、どれにも優れていた。詣で着いて、僧房に行き着いた程、掻き時雨れた紅葉が、類なく見える。奥山の紅葉の錦、他よりもどう時雨れて深く染めたのだろう。と見やられる。
二年ばかりあって、また石山に籠ったところ、夜通し雨がひどく降る。旅居は雨がひどく鬱陶しいものと聞いて、蔀を押し開けて見ると、有明の月が谷の底まで曇りなく澄み渡り、雨と聞こえたのは、木の根から水の流れる音だった。谷川の流れは雨と聞こえるけれど、他より異なるあり明けの月。
また初瀬に詣でると、初めにこの上なく物頼もしく、所々に設けなどして、行きもやらない。山城、国は母その森などに、紅葉がひどく趣深い程である。初瀬川を渡るのに、初瀬川立ち返りながら尋ねると、杉の印もこの度見よう。と思うのもひどく頼もしい。三日お仕えして退出すると、例の奈良坂の此方の、小家などに、この度はひどく類が広いので、宿れそうもなくて、野中に仮初めに庵を作って据えたところ、人はただ野にいて夜を明かす。草の上に筵などを打ち敷いて、上に蓆を敷いて、ひどく儚くて夜を明かす。頭もびっしょり露が置く。暁方の月がひどく澄み渡って、世に知らず趣深い。行方ない旅の空にも遅れないのは、都で見た有明の月。
底本:『新註更級日記』吉川秀雄著(精文館書店、大正15年[1926])。本文画像:所蔵機関の公開資料。
大正15年(1926)吉川秀雄著『新註更級日記』(精文館書店)の本文を、国立国会図書館デジタルコレクションの原画像と照合した独自編集本文です。底本の字句を残し、頭註は転写していません。発音の読みと独自訳を添えています。