紫式部日記 / 第9場面
才女たちへの評と自省
あらすじ・人物・読み方
宮中での交際の難しさを論じ、和泉式部・赤染衛門(匡衡衛門)・清少納言への批評を記す。世間の式部評、日本紀の局の逸話、幼い日の漢籍の才の思い出、中宮に楽府を教えたことが語られ、反古を焼き手紙を書くことをやめた心境を綴る長い手紙の文章までが、一続きの自省として続く。
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今は、だんだん大人びておいでになるにつれて、世のありさまも、人の心の良いも悪いも、過ぎたのも後れたのも、皆御覧になって知り、この宮あたりのことを、殿上人も何も見慣れて、格別おもしろいことはないと思って言うはずだと、皆心得ている。そうはいっても奥ゆかしくもありきれず、取り外せば、たいそう軽率なことも出てくるものだから、情けなく引き込んでいる〔女房たちを〕、こうしてもいようとお思いになりおっしゃるけれど、その習慣は直りにくく、また今風の公達というものは倒れ〔そうな〕方で、いる限り皆まじめな人である。斎院などのような所で、月を見、花を愛で〔る――次ページへ続く〕。〔月や花を愛で〕る一途な謡のようなことは、自分から求めて思っても言うだろう。朝夕出入りする、興味のなさそうなあたりで、つまらないことも聞き寄せて話し、あるいはおもしろいことを言いかけられて、答えて恥ずかしくないような人が、世間では少なくなったと、人々は言っているようだ。自分では見られないことなので、知りようがないなあ。必ず人が近寄って、たわいない答えをするからといって、憎いことを引き出そうとするのはおかしい。たいそうよく、そうもあるべきことだ。これを、人の心はありがたいものだと言うようだ。どうして必ずしも表に出るのを憎んで、引き込んでいるのが賢いのだろうか。また、どうして一途に、さまよい出ていくべきだろうか。良い程度に折々の様子に従って、対処することがたいそう難しいのであろう。
まずは、中宮大夫が参上なさって、申し上げさせるべきことがあった折に、たいそうか弱く籠もっておられる上臈たちは、対面なさることが難しい。また会っても何事を、はかばかしくおっしゃりそうにも見えず、言葉が足りないのでもなく、心が及ばないのでもないけれど、慎ましく恥ずかしいと思うあまり、間違いもされうるのを、むやみに一切聞かれたくないと、ほのかな様子をも見せまい〔とする〕。外の人は、さぞそうではなかろう〔と思う〕。このような交わりであるので、並びない貴人も皆世間に従うというのに、ただ姫君ながらのもてなしで、皆いらっしゃる。下臈〔の女房〕が出て会うのを、大納言は心良からずと思〔う――次ページへ続く〕。〔大納言が心良からずと〕お思いになるので、しかるべき人々が里へ退出し、局にいる者もやむない暇に差し障る折々は、対面する人がなくて退出なさる時もあるのである。その他の上達部で、中宮の御方に参って慣れ、物事を申し上げさせるのは、それぞれ心寄せの人で、自然とそれぞれにほのかに知りながら、その人がいない折は、興ざめに思って、出ていく人々のことに触れながら、「この宮あたりのことは埋もれている」と言うはずなのも、もっともである。斎院あたりの人も、これを恥ずかしく思うのであろう。そうはいっても我が方に見所があり、外の人は目も見知らないだろう、物事を聞き咎めまいと、思い侮るのも、また道理がない。すべて人を非難する方は易しく、自分の心を保つことは難しいはずの行いを、そうは思わず、まず自分の賢さで人を無きものにし、世を謗るほどに、心の際限だけが見え現れるようだ。たいそう〔中宮に〕御覧いただきたかった文章だなあ。人が隠しておいたのを盗んで、密かに見せて取り返しておいたので、妬ましいことだ。
和泉式部という人こそ、おもしろく〔文を〕書き交わしていた。しかし、和泉にはけしからぬ方がある。打ち解けて文を走り書きしたのに、その方面の才能のある人で、はかない言葉の句々も見えるようだ。歌は、たいそうおもしろいことや、物覚えや、歌の道理は、本当の歌詠みの様子ではないようだ。口にまかせた事どもに、必ずおもしろい一節の目に留まる詠み添えがある。そ〔れ――次ページへ続く〕。それでさえ人の詠んだ歌を、難じたり道理を言ったりするようなのは、さあ、そこまで心は利くまい。口にたいそう歌が詠まれるようだと、見えた筋であるよ。立派な歌詠みだとは、思えない。
丹波守の北の方を、中宮や殿などのあたりでは、匡衡衛門と言っている。格別高貴なほどではないけれど、本当にゆったりとして、歌詠みといって万事につけて詠み散らさないけれど、聞こえた限りは、たわいない折節のことも、それこそ立派な口ぶりである。どうかすると腰が離れないほど折れ返った歌を詠み出して、言いようもないもったいぶったことをしても、自分を賢いと思っている人は、憎くも気の毒にも思える行いだ。
清少納言こそ、したり顔にたいそう〔賢く〕していた人だ。あれほど賢しらに漢字を書き散らしているほども、よく見れば、まだたいそう堪えきれないことが多い。このように人と違おうと思い好む人は、必ず見劣りし、行く末は情けないばかりであるので、艶になった人は、たいそうすさまじくむなしい折も、物の哀れに進み、おもしろいことも見過ごさないほどに、自然とそうあるまじく、浮ついた様子にもなるのであろう。その徒になってしまった人の末路は、どうして良かろうか。こう方々につけて、一節の思い出して取るべきこともなく過ごしてしまった人の、特に行く末の頼みも〔な――次ページへ続く〕。ないことこそ、慰めに思う方さえいないけれど、心すさまじくもてなす身だとさえ思わないだろう。その心がまだ失せないのか、物思いのまさる秋の夜も、端に出て眺めれば、いよいよ月や昔を愛でたであろうと、見えた有様を催すようであるらしい。世の人が忌むと言う咎をも、必ず至るだろうと憚られて、少し奥に引き入って、さすがに心のうちには尽きずに思い続けられるようだ。風の涼しい夕暮れ、聞き良くない独り琴を掻き鳴らしては、嘆きが加わると聞き知る人がいるかと、恐れ多くなど思えることこそ、おかしくも哀れでもあった。それは怪しく黒み煤けた局に、箏の琴や和琴を調べながら心を入れて、「雨の降る日は琴柱を倒せ」などとも言わないままに、塵が積もって、寄せ立てていた扇子一揃いを隙なく積んでいる物、一つには古歌や物語の言いようもなく、虫の集まりになっているのを、難しく使い散らせば、開けて見る人もいない。片一方に書物どもをわざと置き重ねた人もいなくなった後、手に触れる人も格別にない。それらを、退屈が募りすぎた時、一つ二つ引き出して見ていると、女房が集まって、「お前は、こうしていらっしゃるので御幸が少ないのです。どういう女が漢字の書を読むものですか。昔は経を読むのをさえ人は制したものです」と、後ろで言い合うのを聞くにつけても、物忌み〔していた――次ページへ続く〕。人の行く末は、命が長そうな由とも見えない例だと、言いたく思うけれど、思い隈なきようである。こともあろうか。万事は人によってそれぞれだ。誇らしげにきらきらと気持ちよさそうに見える人がある。万事退屈な人が紛れることもないままに、古い反古を引き探し、修行がちに口ひげを鳴らし、数珠の音が高いなど、たいそう心惹かれなく見える行いだと思われて、心にまかせるべきことでさえ、私が使う人の目を憚り心に慎む。まして、人の中に交じっては、言いたいこともあるけれど、さあと覚え、心が合わない人には、言っても益がないだろう。物真似を打ちし、私はと思う人の前にては、うるさいので物を言うことを捉えて、人を無きものにするようだ。それ心より外の自分の面影を外れたと見ても、去ることができず向かい合い、変わって座っていることさえある。あれこれまで非難されたなと、恥ずかしいのではないけれど、難しく思って、ぼけられた人に、いよいよなり果てているので、こうは推し量らなかった。
たいそう艶で恥ずかしく、人に見えにくい様子で、物語を好み、良しとして、歌がちに人を人とも思わず、妬ましく見落とそうとする者と、皆人々が言い思いながら、憎〔む――次ページへ続く〕。〔私を〕見たのを、「見るには怪しいほどおとなしく、別人かと覚える」と皆言っているのに、恥ずかしく人にこう老いぼけた者と、見落とされたのだとは思うけれど、ただこれこそ自分の心と慣れてもてなしている有様で、中宮の御前も、「たいそう打ち解けては見えまいと思っていたけれど、人より特に親しくなったことだ」と、おっしゃる折々がある。癖々しく、優美に振る舞い、恥ずかしがらせられる人にも、そばに目立てられてしまっただろう。そのように、すべて人はおとなしく、少し心を置いて長閑に落ち着いているのを本としてこそ、許すも良しもおもしろく、後々安心だ。あるいは色めかしく浮ついているけれど、本性の人柄に癖がなく、傍らのために見えにくい様子をしないでさえいるようになれば、憎くはないだろう。私はと、奇妙に、口ぶりや様子が仰々しくなってしまった人は、立ち居につけて、自分が用意されるほどに、その人には目が留まる。目を留めてしまえば、必ず物を言う言葉のうちにも、着ている振る舞いや、立って行く後ろ姿でも、必ず癖は見つけられる行いである。物言いが少し合わなくなった人と、人の上を貶めている人とは、まして耳も目も立てられる業であるにちがいない。人の癖がない限りは、どうして、たわいない言葉をも聞かせまいと慎み、無い情けを作りたいものだ。人が進んで悪いことをしでかすのは、悪いことを過ちしたのであろうも、言い笑うのに憚りなく覚える。たいそう心が良かろう人は、私を〔――次ページへ続く〕。憎むとも、私はなお人を思い後見するべきだけれど、たいそうそうもできない。慈悲深くいらっしゃる仏でさえ、三宝を謗る罪は浅いと説きなさるだろうか〔いや、浅くない〕。まして、これほどに濁り深い世の人は、なお辛い人は辛いにちがいない。それを、自分が勝って言おうと、たいそうな言葉を言いつけ、向かい合って様子悪く守り交わしても、そうではないと隠し、表面は穏やかなのを良からず思っていたのも、知ることができず、心憂い後言が多く聞こえた。左衛門の内侍という人がいる。怪しく、むなしく物語を人に譲らせなさりながらお聞きになっていた時に、「この人は日本紀をお読みになるはずだ。本当に才能があるだろう」とおっしゃったのを、ふと推し量って、「たいそう才能がある」と殿上人などに言い散らして、日本紀の御局と付けたのである。たいそうおもしろいことだ。この故里の女の前でさえ、慎んでいるものを、あのような所で才能を探し出してしまうだろうよ。この式部丞という人の、童で史記という書を読んでいた時、聞き慣れながら、あの人は遅く読み取り、忘れる所をも、怪しいほど敏くしていたので、書に心を入れた親は、「口惜しく、男子として持たなかったことこそ幸福がなかった」と、常に嘆かれていた。」それを男でさえ才能ぶる人はどうだろうか、花やかでないばかりのようだよ」と、だんだん人が言うのも〔――次ページへ続く〕。〔漢学の素養を〕聞き知られてからは、一という文字さえ書き続けることをせず、ひどく不器用に下手になってしまった。読んだ書物など言ったであろうものは、目にも留めなくなっていたのに、ますますこんな評判を聞くようになったので、人が伝え聞いて憎むだろうと恥ずかしくて、御屏風の上に書いてある事さえ読めないふりをしていたのに、〔中宮が〕御前で『文集』の所々をお読ませになるなどして、そうした漢詩文の素養をお知りになりたそうに思っていらしたので、たいそう人目を忍んで、人の控えていない間の暇々に、一昨年の夏頃から『楽府』という書二巻を、たどたどしくこのようにお教え申し上げているのも、〔人には〕隠している。中宮もお忍びになっていたが、殿〔道長〕もすっかり様子をお知らせになって、立派な漢文どもをお書かせになって、殿は〔中宮に〕差し上げなさる。本当にこのようにお読ませになるなどすることは、あの口うるさい内侍には聞かせるわけにはいかないだろう。知ったらどんなに謗るだろうと思うと、すべて世の中は面倒で憂いものだ。どうして今さら言葉を忌み慎むことなどしようか、いやしない。人が何と言おうと、ただ阿弥陀仏にたゆみなく経を習い申し上げよう。世の厭わしい事は、すべて少しも心に留まらなくなっているので、聖になろうとするのに怠るはずもない。ただひたすら〔世に〕背いても、雲に上らない程度の、ためらうような有様であるべきなのだろう。そのためにぐずぐずしているのである。年もまたちょうどよい程になってゆく。これよりひどく老い衰え…(次ページへ続く)〔老い衰え〕て、また、珍しいことに経も読まず、心もますますためらいが増すだろうものを。心深い人の真似のようであるが、今はただこうした〔仏道の〕方面の事ばかりを思っていらっしゃる。それに罪深い人は、また必ずしも〔願いが〕叶うまい。前世〔の因縁〕が知られる事ばかり多くあるので、何事につけても悲しい。お手紙に書き続けることのできない事を、良い事も悪い事も、世にある事や身の上の憂いでも、残らず申し上げておきたいものだ。けしからぬ人を思い申し上げるといっても、こんな事があってよいはずがあろうか、いやない。しかし〔中宮は〕所在なくいらっしゃるだろう。また〔私の〕つれづれな心をお目にかけよ。またおっしゃる事がひどくこう益のない事でも、多くなくともお書かせください。拝見しよう。夢の中でも散ってしまったら、ひどく悲しいだろう。またまた〔書きたい事は〕多くある。この頃、反故どもは皆破って焼き捨て、雛などの家作りに、古びてしまっている。この春〔宮中に〕お仕えするようになってからは、人の手紙もなく、紙にわざわざ書くまいと思っているのは、ひどく古びた〔考えだ〕。事が悪い方面にはならない。わざわざ御覧になっては、早くおっしゃるだろう。読むことのできない所々は、文字を落としているのだろう。それが何だというのか。御覧になるのもお漏らしくださいな。このように世の人の事の上を思い思いして、最後に閉じ込めてしまうと、身を思い捨てない心が、それほど深くあるべきなのか、何をしようというのか。
底本:『紫式部日記』長連恒校註(国民図書、昭和4年[1929])。本文画像:所蔵機関の公開資料。
昭和4年(1929)長連恒校註『紫式部日記』(国民図書)の本文を、国立国会図書館デジタルコレクションの原画像と照合した独自編集本文です。底本の字句を残し、頭註・傍註は転写していません。発音の読みと独自訳を添えています。