土佐日記 / 第5場面
室津を発ち、和泉の灘へ
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あらすじ・人物・読み方
二十一日に室津を発ち、海賊の噂に怯えながら、三十日に和泉の灘へ至る。
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さて、今、〔私たちが〕その昔〔の仲麿のこと〕をおもいやって、ある人が詠んだ〔歌〕。都で山の端に見た月であるけれど、〔今は〕波から出て波にこそ入る〔月だ〕。
二十一日、卯の時刻〔明け方〕ごろに、舟を出す。皆、〔ほかの〕人々の舟も出る。これを見ると、春の海に、秋の木の葉が散るように〔波が〕散っているのであった。並々でない願いによるのだろうか、風も吹かず、よい月が出て、〔私たちは〕漕いで行く。
この間に、使われようとして、〔船に〕ついて来る童がいる。それから〔その童が〕歌う歌〔は〕、それでもやはり故郷の方は見てしまう、わが父母がいらっしゃると思うと、〔ああ〕帰りたいよ。と歌う〔のは〕、哀れである。
こうして〔童が〕歌うのを聞きながら、漕いで来ると、黒鳥という鳥が、巌の上に集まっている。その巌のふもとに、浪が白く打ち寄せる。梶取が言うには、黒鳥のもとに、白い浪を寄せると言うのだそうだ。この言葉は、何ということはないけれど、〔まるで鳥が〕ものを言うようにぞ聞こえた。〔その言葉が言う人の〕身分に合わなければ、咎めるのである。
こう言いながら行くと、舟君である人が、浪を見て、国を出て〔舟に〕乗り始めてから、海賊が報いをするだろうということを思う上に、海のまた〔恐ろしいこと、と次へ続く〕。〔海がまた〕恐ろしいので、頭〔の髪〕もすっかり白くなってしまう。まして七十や八十〔になって髪が白くなる〕というのも、みな海〔での心配〕にあるものだということだ。〔心配で〕白くなった私の髪の雪と、磯辺の白波と、どちらが勝っているだろう、沖の島守よ。勝ちの方を言ってくれ。
二十二日、昨夜の泊まりから、別の泊まりへと追うように進んで行くと、はるかに山が見える。年が九つほどになる小さな童は、年のわりには幼いのである。
この童は、舟を漕ぐにつれて、山も〔一緒に〕行くように見えるのを見て、不思議なことに、歌を詠んだ。その歌は、漕いで行く舟の上から見ると、足を引きずるようにそびえる山までも〔一緒に〕行くように見えるが、松は〔それを〕知らないのだろうか。
と〔童は〕言った。幼い童の言葉にしては、〔出来が〕似つかわしい〔ほどよくできている〕。今日、海が荒く、磯に雪が降り、波の花が咲いた。ある人が詠んだ〔歌がある〕。波だとばかり一様に聞いていたけれど、色を見ると、雪と花とに見間違えてしまうことだ。
二十三日、日が照って〔いたが〕曇った。この辺りは、海賊の恐れがあるというので、〔私たちは〕神仏に祈る。
二十四日、昨日と同じところにいる。
二十五日、舵取たちが北風が悪いと言うので、舟を出さない。海賊が追って来るという話が、絶えず聞こえてくる。
二十六日、本当だろうか。海賊が追って来るというので、夜中ごろから、舟を出して、漕いで来る道に、手向けをするところがある。舵取が〔神に〕幣を奉ると、幣が東へ散ったので、舵取が申し上げることは、「この幣の散る方へ、御舟を速やかに漕がせてください」と申して、〔幣を〕奉る。これを聞いて、ある童が詠んだ〔歌がある〕。海のちふりの神に手向けをする幣の追い風が、絶えず吹いてほしいものだ。と〔童は〕詠んだ。
この間に、風が良ければ、舵取はたいそう誇って、舟に帆を掛けるなどして喜ぶ。その音を聞いて、女も、言ひつしかど思うためであろうか、たいそう喜ぶ。この中には、あはぢのたうめという人の詠んだ歌〔がある〕。追い風が吹き抜ける時は、行く船の帆が〔風に〕打たれてこそ嬉しかったことだ。
と〔詠んだ〕と、ていけのことに付けながら言い表すのだという。
二十七日、風が吹き、波が荒いので、舟を出さない。あれこれと、ひどく歎く。男たちの心慰めに、唐歌に、日を望めば都は遠い、などと言うようなことの様子を聞いて、ある女が詠んだ歌、日をだけでも天雲の近くに見る〔ことができる〕のに、都へ〔帰る〕と思えば、道の遥かなことよ。
また、ある人が詠んだ〔歌〕、吹く風が絶えない限り〔波が〕立ったので、波路はますます遥かであった。
〔その〕日は一日中、風が止まない。爪弾きをして、寝た。
二十八日、一晩中、雨が止まない。今朝も〔雨は止まない〕。
二十九日、船を出して行く。うらららと〔日が〕照って、漕いで行く。爪がとても長くなっているのを見て、日を数えると、今日は子の日であるので、〔爪を〕切らない。正月であるので、京での子の日のことを言い出して、小松がほしいと思うけれども、海の上であるので、難しい。ある女が書いて、届けた歌、心もとないことだ、今日は子の日かどうか。海人ならば、海松をだけでも引くであろうものを〔私は引けない〕。
と〔その女は〕言った。海で詠んだ子の日の歌としては、どうであろうか。ある人が詠んだ歌、今日であるけれど、若菜も摘まず、春日野の若菜も、私が漕ぎ渡る浦にはないので。
こう言いながら、漕いで行く。面白いところに、舟を寄せて、ここ〔で――以下は範囲外に続く〕。〔ここは〕いったいどこかと尋ねると、土佐の泊まり〔という所〕だと言った。昔、土佐と言ったところに住んでいた女が、この船に混じって乗っていた。その〔女〕が言うには、昔、しばらくいたところの名が〔自分の名と〕同類であるという。あれは、と言って詠んだ歌〔は〕、長年住んだところの名を〔自分の名に〕負っているので、寄せて来る波までもいとしく見える。
三十日、雨も風も吹かない。海賊は夜には歩き回らないと聞いて、真夜中ごろに船を出して、阿波の水戸を渡る。夜中なので、西も東も見えない。男も女も、やっとのことで神仏に祈って、この水戸を渡った。寅と卯の時刻ごろに、ぬしまというところを過ぎて、田無川というところを渡る。やっとのことで急いで、和泉の灘という所に着いた。
今日は、海に波に似たものがない〔ほど穏やかだ〕。神仏の恵みが、あわれみ深いことに似ている。今日、船に乗った日から数えると、三十日あまり九日に、
なったのである。今は和泉の国に来たので、海賊は物の数ではない〔恐れるに足りない〕。
底本:『国文講義土佐日記』池辺義象著・朝野書店・大正4年[1915]・国立国会図書館蔵 320-189。本文画像:所蔵機関の公開資料。
『国文講義土佐日記』(池辺義象著・朝野書店・大正4年[1915]、国立国会図書館蔵 320-189)の大字本文を原画像と照合した独自編集本文です。通行字体・現行仮名へ写し、濁点・句読点を補っています。発音の読みと独自訳を添え、補った主語などは〔 〕で示します。